Komatsu Nine

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【KOMATSU NINE MEETING】vol.4「伝統を築き、伝える。小松の生き字引」関戸昌郎

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「KOMATSU NINE MEETING」は、地域で暮らす/働くゲストと、聞き手との対話を通して、小松の日常にある“続いていくもの・変わっていくこと”を考えていく対談企画です。

第4回目のゲストは関戸昌郎(せきど まさお)さん。

関戸昌郎さん
小松市で観光ボランティアガイド団体「ようこそ」の代表を務め、町家や曳山をはじめとした地域の歴史文化を守り伝える活動に尽力。長年にわたり、まちづくりや文化継承の中心的存在として地域から高く評価され、小松市市民功労賞を受賞。

<聞き手:小林太一>
山梨県生まれ。大学を卒業後、都市銀行や農業ベンチャー企業に勤務。
2022年、小松市が公募した特定任期付き幹部職員に採用され、小松市観光交流課で勤務。
2025年6月より、(株)こまつ賑わいセンターの代表取締役社長に就任。



目次
1、町から町へ、移り住みながら過ごした幼少期
2、「曳山を動かさんなんだめや!」
3、ボランティアガイド「ようこそ」の誕生
4、案内人としての「小松


1、町から町へ、移り住みながら過ごした幼少期

関戸さん「わしは小松町泥町生まれなんです。
泥町は今の大川町です。そこで生まれて、でも親父が出生届を出した時に間違えて、戸籍謄本では生まれが西町になってしまっていたんです。」

小林「どういう間違えだったんでしょう…!(笑)」

関戸さん「それまで本籍が西町だった。わしが生まれたときは大川町にいたので、ついでに本籍も移したけど、(出生届と)日が3日ズレたとかで。でも、もうどっちでもいいわと(笑)。同じ小松の町の中ですからね。私が5歳の時、昭和15年に小松『市』になったんです。」

小林「それまでは小松市は小松町だったんでしたっけ。」

関戸さん「そうそう。小松市は、石川県内で金沢、七尾に次いで3番目の『市』になりました。私の学校は芦城小学校でしたが、ちょうど私が入学した時から国民学校になった。国民学校へ入って、卒業は小学校。6年生から稚松小学校へ行き、男としては第1回目の卒業生です。」

小林「泥町(大川町)から芦城小学校まで通っていたのですか。」

関戸さん「うん、大川町からずっと。茶屋町から八幡町までの広い範囲から、男は芦城、女は稚松へと分かれて通っていました。一学年の人数は多かったねえ。5組か6組まであって、1クラス45人から55人ほどやったかな。何人か体が弱かったり、戦争で進学が遅れてしまって落第した人もおった。」

小林「55人!小学校ではどんなことをしていましたか。」

関戸さん「小学校は初めから兵隊さんになるという感じだったね…」
関戸さん「うちの父親はね、『泥町』という名前が嫌で。汚いから。宿帳には『小松町大川橋詰』と書いていた。でも、それで手紙も来るの!(笑)」

関戸さん「ところでね、私には学籍簿がないんです。一番優等生のはずなんやけど(笑)。芦城国民学校から稚松小学校へ移る際に何人か記録が残らなかったようで、どちらの学校でも調べてもらいましたが結局ないの。国民学校に通っていた時分には、疎開で1、2ヶ月ほど母の里にある美川の小学校へ行っていたこともあります。それから中学1年の12月頃に、ここ(材木町)へ越してきました。」
小林「引っ越しのきっかけはなんですか?お父さんのお仕事…?」

関戸さん「いや、初めて父親が家を買えたの。それ以前は龍助町の横丁にあった借家にいましたが、大火に遭うて…。次に借りた家も2年あとに火事で燃えてきれいに全部なくなった。何もなくなった。それからなんとかして、初めて終戦後に材木町に来た。材木町の人の大半は私がここで生まれたと思っていますが。」 

2、「曳山は動かさんなん、だめや!」

小林「中学生の頃から材木にきたんですね。そのときから曳山に関わっていたのですか。」
関戸さん「(関わることは)全然なかった。高校の時もない、ただワーワーと見ているだけで。」

関戸さん「私が初めて曳山に携わったのは、昭和27年に材木町が初めて曳山を出すことになった時です。当時京都にいましたが、母親が交渉して、本社から特別に許可をもらって、お祭りの3日間だけ帰省しました。そのときは何にも間に合わない(手につかない)。曳山の何も分からないから。それで事務所の中で花(祭礼へ寄付するお金)の集計係をしていました。その時分はもうすごかった、見に来る人がね。上手な町にはいっぱい。」

関戸さん「反対に、あまり上手でない町には『この町はもちをまいた(餅を配って人を寄せている)』て言うの。そういう隠語というか言い伝えがあった(笑)。下手やと言うと失礼にあたるからね。」
小林「上品!(笑)。面白い表現ですね。」

関戸さん「最初は見習いやって。その次の機会には初めて曳山の上に乗り、口上をやった。でも、教えてくれないの、誰も。」

小林「え!そうなんですか?」

関戸さん「うん、『てきとうにやっとけ』ちゅうて(笑)。2回目の時だったか、その一度だけ上(肩衣)を着けて出た。裃(かみしも)の上だけね。」

関戸さん「(ちなみに)日本海博覧会っちゅうのがあった時には、当時小学校5年の息子が鬘(かつら)をかぶって衣装(裃)を着て、口上を言うた。日本海博覧会は金沢の産業展示館であって、七尾の青柏祭(せいはくさい)で使われる『でか山』と、小松のお旅まつりの曳山を持って行った。」

小林「関戸さんは京都にいながら、色々関わっていたんですか?」

関戸さん「いや、京都には2年しかおらんかった。すぐにこっちに帰ってきてたから。お祭りの時期は仕事を早めに終えて帰り、子供の芝居を横でにずっと座って見とった。そうせんことには芝居覚えられんからね。で、覚えて、やっと附け(木の板を叩き役者の動きや場面展開を強調する効果音)を打って。はじめはそれもさしてあたらんかった。」

小林「その時にはもうお祭りにハマっていた?」

関戸さん「その時分まだ、ハマっとらん。『はい、はい、はい』と一生懸命やっとるだけやった。その時は組み立てなんかでも…(本来、)わしははしごを三つほど登ると足が震えるんや。それが、曳山だけはずっと上まで登れた(笑)。」

小林「へぇ〜!スイッチが入るんですかね。」

関戸さん「その時は4年に1回やったからね、組み立ては。、ほんで、2、3回目の時に間違えたんやね、組み立ての順番を。半分組んでから、外して、やり直して。そのまた次の年にも同じところをやって(間違えて)。長老が『大丈夫や!』て言うてんけど、わしは『ダメや』言うて…。わしは前の失敗をメモしてあってん。、その次からは『お前がおればもう大丈夫や』と任せてもらって世代交代が進んだ。」
関戸さん「日本海博覧会(1973年)の時に、五人衆で『越しの会』という会があって、普通は温泉旅行に行く会なんやけど、『お祭りを見に行こう』と提案してん。それから全国10数か所以上のお祭りを見て。その時に、曳山は2基だけじゃだめということが分かった。どこ行っても全部出してる。数で驚かさんなんダメやって。帰ってきてすぐ、訴えたけど、誰も話にのってこんかった。でもある時、寺町が曳山を出した勢いで次の年も組み立ててくれて、展示した。その次の年には八町全部出た。」

小林「へ〜!」

関戸さん「 最初は動かさず町内に置いてあるだけ。そんな状態が2年ほど続いて、また言うたんや。『動かさんなん、だめや』ちゅうて。」

関戸さん「はじめは龍助町のところに5基、小松テレビの前あたりで3基を揃えてやったり、次の年には京町に出てきて。それから小松市役所の前で。土居原の小松駅前の広場でもやったりしたけど、6基しか入らなんだ。どこでしとるかもわからん。せめて土居原のまちなかでやろうとしたけど、今度が警察からクレームがね(笑)。ほんで今のところになった。」

小林「細工町ですね。」

関戸さん「そんな、いろんな事があってね。」

小林「乗り越えないといけない事がいっぱいあって…10年かかったと以前聞きましたが。」

関戸さん「10年かかるのは町の人の考えや。10年ほど経ってやっと(曳揃えが)できて、その時には本当に涙が出た。嬉しかった。」

小林「少しずつ少しずつ、形にして見せないといけなかったんですね…」

関戸さん「はじめは(曳揃えに)半信半疑やだった町の人も、そうすればこうしたら人がたくさん来てくれるってわかってくれた。その後、西村市長の時にフェスティバル(子ども歌舞伎まつり)ができ、NHKが3年間教育放送で取り上げてくれた。国民文化祭で富山県に招待された時には、ちょうど材木町が当番で。(滋賀県)長浜の子ども歌舞伎と共演したけど、うちの子どもたちが上手で、長浜の人たちをびっくりさせたこともあります。」

小林「今は成田や浅草まで出前公演に行くようになってますが、どう思いますか?」

関戸さん「それが良いことかは分からんけど。宣伝にはなるかな、と思うけどね。それを見て小松まで来てくれるかちゅうことになると…。もっと小松に魅了があるようにして、引っ張ってこんと。イベントのために芝居をするんだとなると、本末転倒やからね。もっと小松自体に目玉があればいいなとそう思うようになったね。」

3、ボランティアガイド「ようこそ」の誕生

小林「 関戸さんのボランティアガイドの活動『ようこそ(https://www.komatsuguide.jp/volunteer)』は何年目ですか?」

関戸さん「今年で25年目。」

小林「25年ですか!『ようこそ』は関戸さんが作られたんですか?」

関戸さん「『ようこそ』はね、県の事業。金沢まで新幹線が着いたときに(向けて)、集客をせんなんちゅうことで、ガイドを作れって。その一連の中でできたんです。たまたま文化課(市役所)へ曳山か何かの用事があって行ったら、(ガイドについて)2回目の会合をしていて。『入れてくれっか?』て言うたら、『入れ入れ』ちゅうて。むりやんこ(無理やり)で(笑)。
喋ることは嫌いじゃないので、じゃあ、やってみようと。」

小林「20年以上活動されてきて、『ようこそ』で活動される方も増えてきたとお聞きしました。」

関戸さん「増えた!それも仕掛けしたんや。(ガイドを)やっとったら歳とってくに決まっとるわと思って、『養成講座』を開いて、生徒を募集した。1年間通して講習を受けて、それを終えた人はぜひ入ってくださいってね。ほんでたまに資料コレクターがおってね(笑)。見とるとわかる。資料だけ持ってって、態度や出席率が悪かったりね。喋るのが下手な人もいた。そういう人は向かんから…」

小林「合う人を見極めながら、ガイドの一員にされていたんですね。」

関戸さん「そんで、今の会長しとるのが当時(養成講座)の二期生で、『ようこそ』って名前つけたのもその方。川田さんっちゅう。金沢に『まいどさん』っていうかわらしい名前のガイドがあるから、ええが(良いのが)ないかなと募集したら川田さんがようこそ』にしようって。」

小林「なるほど。小松の方って最初じゃなくて、最後に『ようこそ』仰ってくれることが多くて、なんか特別な気持ちになります。」

小林「25年の流れがあって、今に至りますが、毎年小松の発見や気付きってありますか。」

関戸さん「今はもうほとんど無いようになったね(笑)。始めた当時はいろんな人から『こんなことあったよ』って(小松のことを教えてもらった)。昔、前田家に仕えた刀の研屋さんが、『火事で焼けて無くなったけど、研屋小路(砥屋の職人が多く住んでいた小路)のここに家があったんや』と教えてくれる人がおったりね。」

4、案内人としての「小松」

関戸さん「ガイドしていて一番思うのは、小松は観光地が【点】なんです。それに対して金沢は観光地が【面】なの。だから金沢はガイドがしやすい。小松は観光地が【点】になってる。那谷寺や観音下、安宅などまちなか以外にも小松のいいところがある。それをどう繋げるかを考えんなん。それが一番大事」

小林「小松市は2300年前の弥生時代のものから、加賀国、前田利家の歴史や文化など、広くて深いですからね」

関戸さん「絹織物なんて、『延喜式』の中に庸・調・租の調(特産品)として小松から京都に持って行ったという記録もある。
当時の聖護院の神主も小松の絹織物を気に入って、小松を訪れた際に『たれかもとおりそめつらん よろこびを加ふる国のきぬのたてぬき』と挨拶の和歌を詠んだとも言われている。
まあ、そんな時分から織物の産地やったと。古い話やけど(笑)。」

小林「そんなたくさんの濃い文化があるなかで、50年後、100年後【点】を【面】でつなげていくことでまた価値が伝わるようになるんですかね…。どうしたらいい(繋がる)んでしょうかね。」

関戸さん「頭痛なるほど考えとるんやけど…加賀市はバスを使って、うまいこと【点】を繋げとる。小松はいかんせん、足がない。ここの課題をどうにかしていきたいとずっと思っとるんやけど…なかなか解決できないね。」

小林「ガイドをされていて、関戸さんが特に面白いと思う小松のスポットはどこですか」

関戸さん「やっぱり芦城公園やね。あそこには雑誌にも載った珍しいラジオ塔もあって。あれは元は明治38年に建てられた街灯なんです。」

小林「ほう…!」

関戸さん「だから火がついていた。それを昭和5年にNHKが借りて、そこにラジオを入れて、わしはその下でラジオ体操をしとった覚えあるわ。携帯のラジオが普及してきてから使われんくなった。そしてまた灯篭になった。」

関戸さん「金沢には兼六園があるけど、小松には芦城公園がある」
金沢でマスコミは止まりがちだけど、小松にもぜひ来て欲しいです。『ようこそ』には芦城公園をまわるコースもあるから、今度来てみて!」

小林「実際のガイドではこう言ったお話を聴きながら、現地をまわれるなんて贅沢ですね!
皆さんも、ぜひ「ようこそ」のガイドさん達と一緒に、小松を巡ってみてください。関戸さん、本日はありがとうございました。」


<about>
ボランティアガイド「ようこそ」
住所:石川県小松市龍助町30
TEL:0761-24-8394 (平日9:00~17:00 土日祝休み)
HP  :https://www.komatsuguide.jp/volunteer#

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